肝癌見落とし事件(最高裁平成11年2月25日第一小法廷判決)

弁護士・医学博士  金 ア 浩 之

 

事案の概要

 

 肝臓の専門医は、肝硬変と診断された患者(当時53歳の男性)に対し、昭和58年11月から昭和61年7月までの間に、合計771回にも及ぶ診療行為を行ったが、肝細胞癌を診断するうえでの有効な検査を一度も実施しなかった。
 ところが、患者は、急性腹症の疑いで昭和61年7月19日以降、他の病院において検査を受けることになり、そこで進行性の肝細胞癌が発見されたが、既に手遅れの状態で同月27日に死亡した。

 

判決要旨

 

1 不作為と患者の死亡との間の因果関係

 

 最高裁は、医師による不作為の注意義務違反と患者の死亡との間の因果関係について、次のように判示して、東大ルンバールショック事件最高裁判決(最判昭和50年10月24日民集29巻9号1417頁)を引用したうえで、次のように判示して原判決を破棄差戻しとした。
 「経験則に照らして統計資料その他の医学的知見に関するものを含む全証拠を総合的に検討し、医師の右不作為が患者の当該時点における死亡を招来したこと、換言すると、医師が注意義務を尽くして診療行為を行っていたならば患者がその死亡した時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性が証明されれば、医師の右不作為と患者の死亡との間の因果関係は肯定されるものと解すべきである。患者が右時点の後いかほどの期間生存し得たかは、主に得べかりし利益その他の損害の額の算定に当たって考慮されるべき事由であり、前記因果関係の存否に関する判断を直ちに左右するものではない」

 

2 本件への当てはめ

 

 最高裁は、上記のとおり判示したうえで、次のように当てはめて、医師の不作為と患者の死亡との間の因果関係を肯定した。
 「原審は、……遅くとも死亡の約6ヶ月前の時点で外科的切除の実施も可能な程度の肝細胞癌を発見し得たと見られ、……長期にわたる延命につながった可能が高く、……死亡した時点でなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性が認められるというにあると解される。そうすると、肝細胞癌に対する治療の有効性が認められないというのであればともかく、このような事情の存在しない本件においては、医師の前記注意義務違反と、患者の死亡との間においては、因果関係が存在するものというべきである。」

 

解説

 

1 不作為型医療過誤と延命利益説

 

 1審は、患者の肝細胞癌について、より早期に発見できた高度の蓋然性があったことを認めたうえで、ある程度の延命効果が得られた可能性もあるとしたが、「どの程度の延命が期待できたかは確認できないから、医師の右過失及び債務不履行と患者の死亡との間に相当因果関係を認めることができない。」として、医師の不作為と患者の死亡との間の因果関係を否定した。もっとも、「適切な治療を受ける機会を奪われ、延命の可能性を奪われたものであり、これにより、精神的苦痛を受けたと認められる。」として、慰謝料300万円を認容した(福岡地裁小倉支判平成7年5月16日)。2審も1審判決を支持し控訴を棄却している(福岡高判平成8年6月27日)。
 1、2審判決は、いわゆる延命利益説に依拠している。従来の下級審判例では、死亡との間の因果関係を否定したうえで延命利益の侵害を認め少額の慰謝料の賠償を命じるものが散見される。例えば、医師の過失と延命の喪失との間に相当因果関係を認め慰謝料40万円を認容した大阪高判昭和40年8月7日、患者の死期を遅らせたかも知れない旨述べて慰謝料100万円を認容した宇都宮地裁足利支判昭和57年2月25日、実際の死期よりも相当期間延命できたと推認し慰謝料250万円を認容した東京高判昭和58年6月15日などがある。また、5年生存率90%以上という医学的知見を前提にしながら死亡との間の因果関係を否定し、延命利益侵害を理由に慰謝料300万円を認容するにとどまった福岡地裁小倉支判昭和58年2月7日もある。
 このように、下級審判例の中には、かなり長期の延命も確実視できるような事例まで死亡との間の因果関係を否定するものがあり、延命利益の侵害を根拠に少額の慰謝料のみ認めるというのが実務の傾向であった。不作為型医療過誤では、伝統的に、医師が注意義務を尽くしていたならば患者を救命できたことが高度の蓋然性をもって証明された場合に死亡との間の因果関係を肯定するという判断枠組みで処理されてきたため、救命できたことを証明できなければ死亡との間の因果関係を認めることはできないことになる。従来の下級審判例が“救命できたこと”を立証命題と考えた理由は、おそらく、不作為型医療過誤の場合、医師による侵襲行為は存在せず、患者が病死しているからだと推察される。患者は病死しているのにその責めを医師に負わせるには、それを正当化できる理由が必要となる。そこで、医師の不作為と患者の死亡との間の因果関係を認めるためには、医師が注意義務を尽くしていたならば、患者の病死を回避できたこと、すなわち、患者の当該疾患を根治させて救命できたことが高度の蓋然性をもって証明されなければならないと考えられたのだと思われる。
 しかしながら、救命を期待できなくても、延命可能性が認められるのに医師の責任を否定するのは妥当性を欠くため、患者保護を図るために延命利益という法益概念が登場した。もっとも、延命利益の侵害が少額の慰謝料賠償にとどまるのは、この保護法益が、生命とは別個の“人格権侵害”と位置づけられたからである。延命利益の侵害が人格権侵害にとどまる以上、生命侵害を前提とする死亡慰謝料や逸失利益の損害賠償を認めることはできない。あくまでも、人格権侵害を理由とする少額の慰謝料しか認容できないという結論になる。

 

2 最高裁が採用した不作為型医療過誤における因果関係の判断枠組み

 

 これに対して、平成11年の最高裁判例は、因果関係の終点となる立証命題を“救命できたこと”ではなく、“死亡した時点においてなお生存していたこと”に置き換えた。
 この理論構成は、不作為型医療過誤における生命侵害を作為型医療過誤と同様に理解することを意味する。例えば、根治が望めない癌患者に手術を行ったところ、手術中のミスで患者を死亡させた場合、患者は病死しておらず手術という侵襲行為が直接の原因となって死亡している。ここで問題となっている患者の死亡は、癌の進行によって訪れる数年先の死亡ではなく、手術ミスによって惹起された特定の時点における死亡である。そして、この場合、たとえ根治が望めなくても、侵害された保護法益は、延命利益ではなく、生命であると解することに異論はないと思われる。そして、不作為型の医療過誤もこれと同様に考えるのであれば、医師の不作為によって惹起された特定の時点における死亡をもって生命侵害と捉えることが理論的に整合することになる。
 この点に関し、八木一洋調査官は、「日常用語的な意味では、『死亡』とは、ある人物の特定の時点での生存反応の消滅という歴史的事実を指すものと思われる。」と解説している(最高裁判所判例解説民事編平成11年度(上)146頁)。確かに、八木調査官によるこの指摘は正鵠を射ている。例えば、ある人物を刃物で刺殺した場合、当該犯行によって生じた特定の時点における被害者の生存反応の消滅という歴史的事実をもって死亡と捉えるはずである。仮に、その被害者が不治の病に罹患していて余命がわずかであったとしても、延命利益が侵害されたとは考えない。そうだとすれば、不作為型の医療過誤においても同様に解すべきで、医師の不作為によって惹起された特定の時点における死亡をもって、生命侵害と捉えるのが筋ということになる。
 このような理解にしたがえば、下級審判例の多くが採用してきた延命利益という保護法益論は解消されたことになる。延命利益の侵害が証明されれば、それは直ちに生命侵害と評価されることになるからである。そして、その結果、死亡慰謝料や逸失利益などの高額賠償に途が開かれたことになる。

 

3 平成11年最高裁判例による立証責任の軽減

 

 八木調査官は、この最高裁判例の実務への影響として、「ある患者が適切な診療行為を受けていたならばいかほどの期間生存し得たであろうかという問いと、ある患者が適切な診療行為を受けていたならば特定の時点で生存していたといえるか否かという問いとを比較すると、一般的には、後者の方が回答が容易であるといえよう。」としたうえで、「立証の負担を幾分かでも軽減する機能上の効果も期待できるとものと解される。」としている(前掲最高裁判例解説150頁)。
 八木調査官が解説するこの微妙なニュアンスは重要である。確かに、特定の時点における生存を立証する方が、いかほどの期間生存し得たかを立証するよりも、立証は容易であるといえるが、そのようにいえる場合は、かなり限定されるものと思われる。癌の見落としのように、診断や治療技術の進歩により、根治救命は困難であっても相当長期の延命を図ることが可能となっている分野においては、立証の負担はかなりの軽減効果を期待できる。しかしながら、脳梗塞や心筋梗塞、重症感染症など致死性の高い疾患の多くは、医師が適切な診断を行ったか否かが患者の生殺与奪を左右する。そうすると、特定の時点で生存していたことと、疾患を根治させ救命できたこととは、多くの場合重なることになる。このような場合においては、特定の時点における生存と根治救命を区別する実益はほとんどなくなってしまう。八木調査官が、あくまでも「立証の負担を幾分かでも軽減」と控えめな表現を用い過度な期待を抱いていないのも、そのような文脈で理解できる。
 むしろ、立証責任の軽減との関係では、“立証命題を特定の時点における生存”としたことよりも、証拠資料の中であえて例示して“統計資料”に言及していることが重要である。東大ルンバールショック事件では、「経験則に照らして全証拠を総合検討し」と表現されているのに過ぎないのに対し(最判昭和50年10月24日民集29巻9号1417頁)、肝癌見落とし事件においては、「経験則に照らして統計資料その他の医学的知見に関するものを含む全証拠を総合的に検討し」として、ことさらに統計資料に言及されているのである。そもそも、不作為型医療過誤の最も深刻な立証上の問題は、作為型のような具体的な侵襲行為が存在しないため、“医師が注意義務を尽くしていたならば”という仮説を設定したうえで、この仮説と結果との間の因果関係を推測するという手法で判断され、因果経路の分析・評価が一般的・抽象的にならざるを得ない点にある。この点について、八木調査官は、「ある種の予測を含む思考上の実験を行うことが必要となるわけであり、検討の内容は自ずから一般論的なものとなって、……その具体性が希薄化する傾向のあることを避けることができない。」としたうえで、具体的な侵襲行為が存在する作為型医療過誤のように、「目に見える場合についてと同じ『心証』を必要とすべきものとすると、……明らかに限界の存在する事項を要求することとなり、結果において、因果関係の存在について立証責任を負う原告側に不利益な帰結を招く可能性が高い。」と解説している(前掲最高裁判例解説143頁〜144頁)。
 そうすると、不作為型医療過誤においては、一般論的な仮説思考で因果関係を検討せざるを得ないことになるが、その際に有益な証拠資料となるのが統計資料である。最高裁がこの“統計資料”にあえて言及したということは、裏を返せば、不作為型医療過誤において、統計資料を活用した仮説思考で因果関係の存否を判断することを許容する趣旨とも解されるのである。この理解が正しければ、患者側の立証上の負担は、かなりの程度緩和されたと考えられる。

 

おわりに

 

 医療訴訟の実務では、今日においても、不作為型医療過誤の紛争類型において、医療側の弁護士から、「患者を救命できた高度の蓋然性があるとは認められない」という内容の反論が提出されることが珍しくない。そもそも、この最高裁判例は、医療側の弁護士からの批判も多い。しかし、この最高裁判例は、今日に至るまで判例変更されることもなく、不動の地位を確立していると思われる。
 もっとも、医療訴訟における統計資料の活用には副作用もある。第1に、高度の蓋然性の立証に80%以上の高い確率が要求されることがあり、統計資料の存在が、逆に因果関係を否定するための根拠として用いられることも珍しくない。第2に、作為型医療過誤の審理において、侵襲行為を含む具体的な判断資料が豊富に存在するにもかかわらず、統計資料を重視した思考実験で因果関係を否定するという下級審判例も見られる。第1の副作用は、高度の蓋然性に80%以上の確率を要求する下級審裁判官の硬直化した姿勢に問題があることを指摘できる。第2の副作用は、下級審裁判官が東大ルンバールショック事件判決を正しく理解していないことに尽きるものと思われる。
 なお、不作為型医療過誤のおける因果関係の存否を判断するに際して、もうひとつ重要な課題が残されている。不作為型では多くの場合、医師が必要な検査・診断を怠っているために、因果関係の有無を評価するうえでの重要な臨床情報に不足することが多い。例えば、胸部X線検査における肺癌の疑い所見の見落としがある場合、精密検査を実施していないため、リンパ節転移や遠隔転移を評価するための資料がほとんど存在しない。このような重要な臨床情報の欠缺は、医師の不作為によってもたらされたにもかかわらず、患者側に見落とし時点での臨床病期について高い証明度を要求するのは著しく公正を欠く。損害の公平な分担の観点からも、患者の立証責任を緩和する理論構成が必要となるが、これは今後の課題として残されているといえよう。

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