お母さんは、高齢出産だったため出産前に羊水検査を受けました。この羊水検査は、血液採取だけで行う出生前診断(NIPT)とは異なり、妊婦のお腹に太い針を刺して羊水を採取するため侵襲的で流産のリスクもありますが、そのリスクを受け入れて羊水検査を受けることにしたのです。検査結果は陰性で、幸い流産等の有害事象も起こらず、無事に出産しました。
ところが、産まれた子は、なぜかダウン症に罹患しており、生後3ヶ月で死亡しました。その後、羊水検査の陰性結果は医師の見誤りで、本当は陽性であったことが判明しました。病院側は200万円の示談金を提示してきましたが、これに納得がいかないご両親は、いくつかの法律事務所を廻って弁護士さんに相談しました。ところが、弁護士さんたちの回答は、いずれも損害賠償請求はできないというものでした。その理由は、母体保護法により、ダウン症の子が産まれてくることを回避するための中絶は許されておらず、刑法上の堕胎罪が成立するため、損害賠償請求を行うことは公序良俗違反となるからだというものでした。
どの弁護士さんに相談しても断られ、当法人が受任することなり、提訴しました。
ご両親が相談した弁護士さんたちの回答は、教科書的には正論です。人工中絶は原則として堕胎罪となり、例外として母体保護法(旧優生保護法)が一定の要件の下に人工中絶を許容しておりますが、ダウン症を理由にした中絶を母体保護法は許容していないからです。
しかしながら、多くの妊婦が羊水検査で陽性と出た場合、医師による中絶手術が現実に行われている実態があり(約9割)、堕胎罪で処罰された例はありません。それなのに、医師が誤って検査結果を告知したら、中絶は違法であるから堕胎はできないという建前論を述べ、責任を取らないというのは不合理なので、大きな敗訴リスクを覚悟のうえで提訴に踏み切りました。
損害論のポイントは、産まれてから死亡するまでの間に、患児に与えた拷問のような苦しみに置きました。この患児は、生後3ヶ月で死亡するのですが、その間、ダウン症に伴って様々な合併症が起きました。産まれた直後から、この患児は、腸の蠕動運動を司る神経叢の異常で排便できず、極度の腹部膨満で腹部の皮膚が剥離しました(ヒルシュスプルリング病)。また、呼吸不全に陥っていたため、人工呼吸器が装着されるとともに、一過性骨髄異常増殖症(TAM)、胸腺形成不全、肺化膿症、びまん性肺胞障害(DAD)なども併発しました。
結局、この患児は、拷問のような苦しみと闘って死亡することを運命づけられて産まれてきたようなものです。このような事実を丁寧に主張して、損害論を展開しました。
被告病院は、予想通り、ダウン症を理由とする中絶は堕胎罪を構成するため許されないという主張を展開してきました。これに対し、原告側は、ダウン症を理由とする中絶は医師により行われているという実態を論じて反論しました。そして、裁判所は、興味深いことに、堕胎罪の成否に関する争点について判断せず、被告病院の過失を認定して、被告病院に1100万円の賠償を命ずる判決を出したのです(函館地裁平成26年6月5日判決)。
弁護士としての教訓は、教科書的な思考で事案をみるのではなく、被害を被った依頼者の気持ちに寄り添うことの重要性を痛感したことです。なお、この事案は、原告側にとっては敗訴リスクが高かったのですが、なぜか被告病院は控訴せず、判決は一審で確定しました。