東京高裁平成10年2月26日判決。 この判例の重要な争点は、以下の3点に整理できます。
・第1は、職場の定期健康診断において読影担当医師に課される注意義務の程度です。
・第2は、定期健康診断の読影担当医師に課される医療水準です。
・第3は、従業員に対する定期健康診断の際に求められる企業の安全配慮義務の程度です。
裁判所は、「定期健康診断は、一定の病気の発見を目的とする検診や何らかの疾患があると推認される患者について具体的な疾病を発見するために行われる精密検査とは異なり、企業等に所属する多数の者を対象にして異常の有無を確認するために実施されるものであり、そこにおいて撮影された大量のレントゲン写真を短時間に読影するものであることを考慮すれば、その中から異常の有無を識別するために医師に課される注意義務の程度にはおのずと限界がある」と判示しました。
「定期健康診断におけるレントゲン読影医の注意義務の水準としては、これを行う一般臨床医の医療水準をもって判断せざるをえないというべきであり、このことは被控訴人(医師)がレントゲン写真の読影につき豊富な経験を有していても異ならない」と述べております。
「一般の企業において……、信義則上、一般医療水準に照らし相当と認められる程度の健康診断を実施し、あるいはこれを行いうる医療機関に委嘱すれば足りるのであって、右診断が明白に右水準を下回り、かつ、企業側がそれを知り又は知り得たというような事情がない限り、安全配慮義務違反は認められない」としました。
まず第1の争点について、何点か補足しておきたいことがあります。
判例は、定期健康診断において限られた時間内に大量のX線写真を読影しなければならないという実情に鑑みて、医師の注意義務を軽減しているわけですが、この事例では、必ずしも癌の見落としがあったとは断定できないということが裁判所の心証の内容となっています。
つまり、定期健康診断の際に撮影されたレントゲン写真の読影を巡って、意見書を提出している医師の見解が分かれており、ある医師は、「癌を疑う所見が認められる」としながら、他方で別の医師は、「癌を疑う所見は認められない」との意見を述べているんです。
例えば、癌所見を疑っている医師は、「当該異常陰影の存在する部位は、血管が錯綜し、前後の肋骨陰影が重なり、異常が指摘しにくい部位であること、右異常陰影(第九肋骨直上の1.2×0.6センチ位)は大きいともいえず、濃い陰影でもなく、輪郭もはっきり追えず、癌の特徴とされるスピキュレーションやノッチも指摘できない…」などとしています。
したがって、元々判断が微妙な上に医師の注意義務が軽減されているわけですから、当該読影医の注意義務違反が否定される方向に働いたのは当然でしょう。
また、この判例を読んで、患者側の弁護士として私が感じたことを率直に述べると、定期健康診断の読影に際して医師の注意義務が軽減されたことが抽象的に分かるだけで、当該医師の注意義務違反が肯定されるか否定されるかは、結局のところケースバイケースであり、その具体的基準は読み取れなかったということです。
元々医療判例というのはこの傾向があって、「事件の個別性」が非常に強いわけですが、この判例もやっぱりそうでした。
さらに、この裁判では、医療機関側の証拠の出し方が気になります。具体的に医療機関側がどのような訴訟戦術を使ったのかというと、死亡した本件患者の過去のレントゲン写真と本件健康診断で撮影した写真、合計283枚にも及ぶフィルムを、呼吸器科専攻の医師10名に対して、読影の目的、被験者の性別・年齢・職業などの情報、特定の疾患が含まれる可能性の有無について知らせないまま読影させる実験を行ったのです。
その結果、本件レントゲン写真について精密検査が必要であるとした医師は、2人だけだったそうです。この実験が「やらせ」かどうか、その真相はわかりません。しかし、これは裁判所の関与なく医療機関が独自に行った実験ですから、割り引いて評価する必要があると思うのですが、裁判所は、医師の責任を否定する論拠のひとつとしてこの証拠も引用しています。このような訴訟戦術が「あり」だとすると、医療機関側は有利ですね。患者側主導でこのような実験はできません。
冒頭で整理したように、裁判所は、定期健康診断で求められる医療水準は、「一般臨床医の医療水準」であると判示しました。
一般臨床医とは、分かりやすくいうと、特に専門でなくても経験豊富でなくてもよい、普通のお医者さんのレベルでよい、と言っているわけです。なぜこれが正面から争点になったのかというと、本件健康診断の読影を担当した医師のひとりは胸部レントゲン写真の読影の豊富な経験を有しており、また別の担当医は呼吸器が専門だっただけではなく、日本肺癌学会の評議員でもあり、まさに肺癌の専門家と呼べるような医師でした。
このように高度な専門知識と豊富な経験を有している医師に対して適用される医療水準が、「一般臨床医」のそれで本当にいいのか、が問題とされたわけです。患者側である原告の代理人弁護士は、本件で読影を担当した医師らが高度な専門知識や経験を有していたわけだから、一般臨床医の医療水準ではなく、実際に読影した医師らを基準にすべきであると論じましたが、裁判所は原告の主張をしりぞけました。
原告側の気持ちは理解できますが、読影した医師の水準によって、求められる医療水準が変わるという議論は法律論としては苦しいと思います。
この争点は医療裁判においては一般的ではありませんので、簡単に触れます。
裁判所は、この争点につき、冒頭で紹介した通り、「信義則上、一般医療水準に照らし相当と認められる程度の健康診断を実施できる医療機関に委嘱すれば足りる」としたわけですが、この判断は相当だと思います。企業側に、癌の見落としをしないような読影力のある医療機関を選別することを求めても、それは無理な相談だと思います。私ならこの事例で企業を被告には含めなかったでしょう。おそらく、ご遺族の被害感情が強くて、矛先が会社にも向いてしまったのだと思います。